夏のまぼろし

ここの傾斜を分度器で測ってみたら一体何度になるのだろう。
いや、角度は問題ではない。問題は、疲れを知らない小学六年生の脚力をもってしても即座に自転車を降りさせ、ひいこらと押し歩きさせるそいつそのもの。
この果てしなく九〇度に近いとんでもない上り坂が一昨日一瞬でできたのだと言っても、それを嘘だと笑う奴も、本気にして驚く奴も、もうこの町にはいなくなってしまった。
例えそれが、戦車の放った大砲の弾が、標的に当たり損ねて地面に突き刺さった結果隆起したものだとしても、その現実を「ああ、そう」と諦めた風に認めた後に、せっせと非常食を鞄に詰める作業に戻る。この町はそんな奴らだらけになってしまった。
が、小学六年生のキャパシティを遥かにオーバーしたこの運動量は俺に「畜生」と罵るだけの肺活量も与えてはくれない。
小高い山のようなその頂上に辿り着いた時、俺は自転車のスタンドを、そこに立てることができなくて自転車を横に倒して寝かせた。万が一スタンドがぐらついてこいつが坂道を転げ落ちたら、また一からのやり直しになる。
朝の八時を迎えた太陽が、巨大な人影で遮られて俺には見えない。その影の主は、この町では山や川のように、既に風景の一部だ。今は跪いて絶叫をあげる彫刻のように、町の非現実を彩り鎮座するそいつ、全長五〇メートルの人型戦闘マシーン也。
全長五〇メートルの人型戦闘マシーン也。いや、これはかっこつけ過ぎるだろう。というのもこいつ、てんで不細工に作られていて、幼稚園児が粘土で作った「おとうさんおかあさん」の方が、子供の愛情が篭っているだけにまだマシかもしれない、という代物なのだった。
何と戦っているのか、というとこれも、こいつを作り上げた政府の奴らの頭の中身と同じによく判らない。宇宙怪獣?アメリカの新型兵器?核実験で海底から呼び覚まされた太古の恐竜?はたまたロストテクノロジー
俺のような小学六年生の頭に理解できるのは、そいつが何故か、この町を目の敵にしているように空から、海からその巨体を震わせてやってきて、先の不細工戦闘マシーン及び自衛隊と戦闘後、爆散、八つ裂き、水が苦手だったらしく水流、などによって死んでいくということだけだった。
太陽が「おい邪魔だよ」と言わんばかりに、僅かに不細工の巨体からその端を覗かせた位の時間が経った時、俺の呼吸もようやく落ち着いていた。汗は相変わらず出てくるが、じっとしているよりは自転車を飛ばしたほうが涼しげだと思えた。俺は九〇度に近い下り坂を、よくわからない悲鳴を上げながら自転車で急速に駆け下りていった。
坂道で付いた加速が終わらない内に目的の公園に辿り着く。公園、といっても今は瓦礫の山だが。そこに、同じクラスの男子が数人いる。その内の一人は俺を見るなり「おせーよ」と吐いた。
「家の前にでっかい坂ができてた」「そんなのいいからさ、見ろよ」「何を」「死体」公園の中に入り、クラスの男子が囲んだ現場に行ってみると、完全武装した自衛隊員が瓦礫に頭を埋もれさせていた。「へえ、銃とか持ってるんじゃん?」「そんな重たいもの担いでるから逃げ遅れちまうんだ」「通報とかはしたのか?」「その内近所の奴が見付けるだろ」「ああ、取調べとか事情聴取とか、面倒だもんな」「二組の相田、取調べでフザけて「この星を侵略しにきた宇宙人です」って言ったら、帰ってこなくなったって」「バーカ」
俺達は近くで五分前のチャイムが鳴るのを合図に、学校へ向かった。俺は自転車を持ってない一人を後ろに乗せて、後ろの奴と話をしながら学校までペダルを漕いだ。
「マラソン大会中止になったって」「真夏にやる方がどうかしてるだろ」「俺、知ってるよ。あれさ、俺達を学徒兵にしたがってるんだよ。そういう法案、できるとか父ちゃん言ってた。だから下準備のつもりなんだ」「下らねえ。手前らから死んでみせろ」
教室に入ると女子がギャーギャーと煩い。喧嘩、というよりは一人に対して大勢が一方的に喚き散らしているという図だった。「あんたねえ・・・」興味が無かったのでそれがどんなセリフだったかは、忘れた。自分の席に座ってボケーっと辺りを見回してみると、机の上に置かれた花瓶の数がまた少し増えていた。
放課後に今朝見た死体から銃をひっぺがそうぜと俺を誘ってきたあいつらを断って、俺はオレンジ色をした校庭の周囲をひたすらぐるぐると回っていた。グラウンド脇の水道の蛇口から、水をひり出す音が聞こえた。水でしきりに肘辺りを擦っている後ろ姿は、同じクラスの奴だ。今朝一方的に喚かれていた。名前はアマヤ子と言う。
アマヤ子が肘の辺りを水で洗っているのは、その肘に擦り傷のようなものがあったからだった。
「あいつらにやられたのか」俺は手を洗いたくもないのにアマヤ子の傍らで蛇口捻って洗い始めると、朝は無視をしたのに、声をかけた。
「しょうがないよね」ハンカチを少し血の出た肘へ丁寧に当てながらアマヤ子は言った。俺はいつも元気だと思っていた母ちゃんの頭に白髪を見つけたような、そんな気分になった。
「あいつら、勘違いしてる。町の奴ら、お前に殺されてるんじゃなくて、お前に守られてるのに」
アマヤ子はあの不細工な巨人のパイロットだった。
「ってゆうか、そうだよ」俺はあの日のことを思い出してた。敵が襲ってきた時、支度の遅れた俺達の一家はまだ自宅で、避難ができていなかった。
家のガタガタ言う引き戸を慌てて開けた時、その音に反応したように、敵がこっちに向かって何かを撃ってきた。間違いなく直撃コースだった。それが何かは判らなかったが、死んだと思った。が、不細工な巨人は手を粘土のようにうにうにと伸ばしてそれを受け止めてくれた。だけど衝撃に吹っ飛んで、それで、その先にたまたまクラスの女子がいて、そいつを上からプチッと潰してしまった。「俺を助けてあいつが死んじゃったとか言えば、矛先が俺に行くんじゃないのか。明日そう言えよ」
「それは・・・やだな」
「わかんねえ。なんでだ」
「うーん・・・」
アマヤ子は俯いて排水溝に吸い込まれていくピカピカに光る水をただじっと見ていた。
俺はチッと舌打ちをして、「好きにしろ」それだけ言った。
「うん、好きにする。好きに助けたり、殺したりする」
「殺すのは余計だろ」「そうだったね」
その時、グラウンドに砂煙を巻き上げながらヘリコプターが着陸した。アマヤ子はテレビで見た金持ちのガキがリムジンに乗って下校するように、さも当然のようにそれに乗り込んだ。
「もうすぐ警報が発令される。今度はちゃんと逃げてね」ヘリの扉が閉まる前、アマヤ子は俺に言った。俺もアマヤ子に言った。「俺は、俺は潰されても文句言わねえから」
俺は、俺とアマヤ子以外の人間が死に絶えた世界で、唯一自分だけがあの不細工な巨人に乗り込んで戦いを続けるアマヤ子を応援している、そんな幻を見た。
そしてサイレンが鳴る。