pankだねヨシ子ちゃん

その頃の姉の印象はというと、文庫本が自分の世界の全て、とでも言いたげな奴に相違なかった。
片手で開いた文庫本の薄っぺらい1ページを、積もりたての雪のように真っ白な指のたった一本で器用にもぺらりと捲る。得意なことといえばそれ位のものだった。
また、そういったブンガクショージョにありがちというか、文字を飲み込むことに慣れすぎて、自分の言いたいことまでも、しょっちゅう喉から胃袋に戻していたように思う。ゲップの代わりにぼそぼそと口をついて出る言葉を聞き取れた人間は、僕を含めていなかった。
姉が高校に入った時、自分と同じような人間に出会って気持ち悪いコミュニティを作るか、さもなくば孤独になるか、最悪黙って殴られるような、体の良いサンドバッグになるだろうと思った。姉は三番目になった。
暫くは居間に、半袖のセーラー服がハンガーにかけて置いてあった。姉が夏を過ぎても部屋を出なくなった頃、一度も袖を通されなかったそれは、何処かへと行ってしまった。
姉はゴキブリのように、深夜みんなが寝静まった頃にカサカサと布団から這い出してきては、夕食の残りを腹に詰めて、また自分の部屋に潜んだ。夜遊びの帰りに、一度姉と冷蔵庫の前で鉢合わせたことがあった。食わなければ死ぬといった形相で、一心不乱にお中元のハムにかぶりつく姉の姿は、幽霊のようにおっかなかった。
実際、我が家は幽霊の出る家にしょうがなく住んでいるようなものだった。なんというか、常識的にはいる筈の無いものを、現実には抱えてしまったような違和感が、いつも家の中に、ヘドロのように沈殿していた。僕自身、正味な話あれは姉なのか?とあの日、開きっぱなしの冷蔵庫の電気に照らされて浮かび上がった姉の横顔を思い浮かべては、時折に思った。
何年かして、僕は姉と同じ高校に入った。僕の机には、おそらく頭の悪い卒業生が彫った、ケンジだかシンジだかいう、読めもしなければ興味も無い名前が刻んであった。姉の名残は何処にも無かった。
唯一担任の教師が、「ヨシ子ちゃん、元気?」とおそるおそる僕に訪ねてきたことがあった。僕はそいつを殴って停学になり、期限が終わるとまた学校へ行った。
あの日からの何度目かの蝉が喚く季節に、姉が狂った。両手に、文庫本の代わりに握られたのは、包丁とハサミだった。僕達は食卓で、その日はカレーだったから、スプーンを握って呆然としていた。
姉は数年間伸びっぱなしだった髪の毛を、僕達の目の前でじょきじょきと切り始めた。その刃先が時折頭を掠めては、頭に切り傷を作っていた。それでも激しい刃の勢いはそのままに、止まることはなかった。
姉が外へ駆け出して行った後も、彼女の残した髪の毛がまるで、へばりついた影のようにその場へ残留していた。
姉は帰ってこなかった。
姉は薄暗いライブハウスの中で、ステージの上にいた。天井は低い。逆立てたモヒカン頭の毛先が揺れると、時折天井の埃をさらってしまう。はらはらと落ちるそれは、スポットライトに炙り出されて輝き、粉雪のようだった。
文庫本を握っていた手が、ギターの弦に痛めつけられて、まだ新しい傷口を残している。空高く掲げた手が振り下ろされ、真っ黒なピックが弦に叩きつけられると、絶叫のような激しい音がその場全員の頭を揺さぶり、腹を殴りつけてくる。
腕の動きとは正反対にゆったりと開きつつある姉の口内では、蜘蛛の糸のような唾が一本の線になって床に落ちた。
姉は吼えていた。その声音は寒空を切り裂く狼の遠吠えのように、愛も夢も無く、ただ孤独だった。
僕はどうして気付かなかったのか、姉が着ているのはあの日着れなかった半袖のセーラー服だった。汗と唾でびしょびしょに濡れている。歌いながら失禁していたのかもしれない。姉の足下には水溜りができていた。
演奏が終わると僕は、キンキンと響く耳鳴りを堪えながらとぼとぼと帰路に着き、あの日以来そのままになっている姉の部屋へと入っていった。
山積みの文庫本で埋め尽くされた部屋。僕は姉の食い散らかしたそれらを、窓から庭へ次々と投げ捨てていった。
僕は部屋の隅に転がった最後の一冊をライターの火で炙ると、窓から落とした。それを火種にして、うち捨てられた文庫本は赤々と燃え上がっていった。
僕は窓辺でうなだれながら、炎の巻き起こす気流に舞い上がっていく活字達を見送るだけだった。