二人ぼっち

日差しの強さから考えて、季節は夏ごろだと思う。
寝床の傍らで首を振る扇風機のタイマーが深夜の内にとっくに切れて、朝、汗だくで、起きたばかりだというのに気だるい。あの時の気分があった。
刻限は日中、としかわからない。ここ数年は、時計の秒針が動く耳障りな音を聞いていない。
今日が暦の上で何月の何日なのか、それも知らない。もうカレンダーを作る工場で、機械を動かす人もいない。
死に物狂いで喚く蝉の声も、夏休みを謳歌しようと蝉を追いかける小学生が、焼けたアスファルトの上を駆け回る足音もしない。
ひたすら静かだったが、それでも割れた窓硝子の向こうからは、ひとりぼっち、必死に時が流れていることを伝えようとして、海水が砂浜の上を何度も撫で付けていた。
ずっと昔、痛がる祖母の背中を擦ってやったことがある。骨がうっすらと浮き出たシミだらけの背中は、不毛な大地を連想させた。今になって、あれは間違いではなかったと思う。
窓から外を見下ろす。四階程の高さ。海と、自分と、もう一人の一人ぼっちが、投網で魚を獲る漁師のように、砂浜で網を引っ張り上げていた。ここからでは小さくて見えないが、その中には缶ジュースやチューハイが、海水で程よく冷やされている筈だった。
黒目と白目の反転したそいつの目が、めざとく俺を見つけると、鱗の付いた掌を俺に向けて振った。掌の先に指は二本しかなく、手はピースサインをしているようだ。
昨日寝床にした、元はホテルらしき建物を俺がのろのろと降りている間に、そいつは砂浜で火を熾していた。使い込んでぼろぼろになったフライパンの上に、地球の缶詰と宇宙人のイカ墨のように真っ黒な携帯食料が乗って、混ぜこぜにされた。
俺はそいつの着た顔と掌以外は全く覆われた分厚い服を見て、「暑苦しそうだ」と言った。その後で、浜辺に打ち捨てられるように放置された網の中から、ポカリスエットの缶のタブをおこしてあおった。
そのまま砂浜に座り込んでいると、俺の横顔から真っ黒なフライパンが、その中身を最初の半分位に残して差し出された。地球産の缶詰の肉と、原料も定かではない宇宙人の食料が合わさったそれは、口に運ぶと不思議と美味かった。
毎日朝晩とこれを食っている。既にこの世の何処にも存在しない寿司だとか、分厚い牛肉のステーキだとかに、かぶり付きたいと思ったことは一度も無い。ひょっとしたらあの真っ黒な液体の中に、精神安定剤でも入っているのかもしれない。
顔を上げるとあいつが耳まで届く口を一杯にカーブさせてキシシと笑っている。美味かったか?とでも言いたげに。
宇宙人のそんな顔を見るなんて、俺はつい数年前までは、思ってもみなかった。
ある日こいつらが大勢やってきて、世界中滅茶苦茶になった。どちらも相手を根絶やしにする気でいた。宇宙人を内側からドロドロに溶かす銃弾が開発されて、数が貴重なものだから、一人に一発ずつ、拳銃とセットで渡された。
長い長い列がこちらと向こうにできて、一人が殺すと一人が殺されていった。そういったルールだの、誰が言い出したわけでもないのに、俺達を除くその場にいた全員が、そうやって死んでいった。俺は最後尾で、あいつも最後尾だった。自分の後ろにも、前にも、もう誰もいないことに気付いて、二人ぼっちでわんわんと泣いた。
それからこうして当ても無く海沿いをぶらぶらとしている。缶詰の残りは、もう随分と少ない。俺は祖母のようになる前には、きっと死んでしまうだろう。
砂浜に寝転がっていると、波の音に違和感を覚えた。見るとあいつが、まるで初めて海に来た幼児のように、おそるおそる中腰で浅瀬に足を付けている。
寂しくはない。時々突然に胸の辺りが、ぎゅっと泣き出すぐらいで。
あいつの持っている真っ黒な食料、昔はもっとフライパンへ、だばだばと注いでいた気がする。もう残りが少ないのかもしれない。
何万光年かの言葉の溝に隔たれて、あいつに聞いたことも、話されたこともなかった。あいつらの寿命はどれ位なんだろう。産まれた頃は小さくて、年を取ると枯れ木のようになるのだろうか。
急に強い波があいつの膝の辺りまでを一気に覆い隠して、あいつは飛び上がってこちらへ走ってきた。が、走っている途中に足をもつれさせて転んだ。俺は腹を抱えて笑った。あの宇宙人の食料には、精神を高揚させる成分でも入っているのかもしれない。そう疑うほど、自分でもよくわからないぐらい笑った。
 
 
日差しの強い日中を避けて、海の中に夕日が半分沈みかけた頃、俺達は歩き始めた。一〇キロもしない内に、寝るのに手頃な建物を見つけると、飯を食ってそこで寝た。
歩こうと思えば夜中中幾らでも歩けた。ただ俺達は、陸に上がった生物がエラを無くすみたいに、急ぐという感覚をすっかり退化させていた。歩く目的も、急ぐ意味も無いのだから、それは自然なことだと思った。
フライパンの中身があの頃よりも随分と少なくなった頃、俺達は久しぶりに波の音以外を耳にした。何か、機械の動く音らしい。最初その音を聞いた時、あいつは戦争をやっていた頃のあいつらのように、目を釣り上げて獣のように唸った。「なんでもない」と俺はあいつの頭を何度も叩き、苦労して宥めた。
俺達の目の前には潮風にすっかり錆び付いた工場があり、機械の音はその中から聞こえていた。
俺は工場の前であいつに待つように(わかりもしないのに)言った。案の定俺が工場の中に入っても、あいつは付いてくる。その度に立ち止まり、コントのように何度もあいつに言い聞かせている内、あいつは雰囲気を察してようやく足を止めてくれた。但し俺を見送るその顔は、見えなくなるまで不安そうなままだった。
俺は機械の音へと近付く度に高鳴っていく胸の動悸を、最初病気か何かだと思った。その内にそれが忘れていた「期待」というものなんだと思い出すと、一心不乱に機械の音に向けて走っていた。見学に来たこともないこの工場に、俺は言いようの無い懐かしさを覚えていた。
音の中心では、工場内の機械に巨大なトイレットペーパーのようなものが巻きつけられて、くるくると回っていた。空気中を漂うほのかな紙の匂いを、俺は肺一杯に吸い込んだ。
その機械の傍らに人間の姿を見た時、俺は声が詰まって何も言えなくなった。じっと見詰めているとその背中が視線を感じて振り返った。向こうは幽霊を見たように素っ頓狂な声を上げた。
お互いがお互いを指差した。おそるおそる歩き出した向こうと、俺の距離が徐々に近付いていって、最後には肩の辺りをばんばんと叩き合った。その時にようやく、声が戻った。
「生きているのは、始めて見た…」「や、俺もですよ」
一寸の沈黙があって、何から話していいかわからず、身振り手振りが先走った俺を見て、向こうから喋り始めた。
「こいつですか?」男が、稼動を続ける機械に顔を向けた。俺はうんうんと大袈裟に頷いた。
「カレンダーを作っているんです」
「…何の為に?」俺はようやくそれだけ答えれた。
「さあ…。何に使うんでしょうね。ただ、当たり前にあったものが、全部なくなっちまって、それが無性に悲しかったんですよ。…今は、××年の八月の十日です。知っていましたか?」俺は首を横に振った。「俺、何年後の何日が何曜日だとか、そういうの、わかるんですよ。あ、そうだ…」
男はふいにつかつかと事務机の方に寄って行くと、俺に出来立てのカレンダーをくれた。「差し上げます」
俺は紙の手触りと質感を、何か大事なものであるように、そっと触った。感嘆の声が出た。
男が満足そうにその光景を眺めながら、言った。「あなたも矢張り、今までお一人だったのですか?」「いや…」俺は言いかけて、
「もし、宇宙人がまだ地球に残っていたら、あんた、どうする?」と、質問を変えた。
男は笑顔を崩さず「殺します」と答えた。
 
 
工場から俺が出てきた時、あいつは俺の肩に担がれているものを見て、不思議な顔をした。
「お前にやるよ」丸めて棒のようになったカレンダーを渡すと、あいつは使い道も知らないのに、嬉しそうに喉を鳴らした。
「俺には必要無いからな」ぽつりと漏らした呟きを、あいつは意味もわからないのにめざとく聞き取って首をかしげた。
いつものように夕日が海に沈みかけていたが、俺達は飯を食うでも歩くでもなく、まだ浜辺にいた。あいつは俺の横で、丸まったカレンダーを望遠鏡のようにして、夕日をじっと覗いていた。
ひょっとしたら、その先にある自分の母星のことを、見ようとしていたのかもしれない。
もう、あの工場から機械の音はしなかった。
俺はジャケットのポケットから、弾丸一つ分の重みがなくなった銃を取り出して、浜辺に投げた。波が急ぐ様子もなく、少しずつ、だが確実にそれを水底に引き込もうとする。
「自分に使うつもりだったんだ…」俺は銃が海水に濡れて、それが夕日に照らされ、いっそう艶やかに黒光りするのを見ていた。
俺は誰に弁解するでもなく、涙声でぶつくさと喋った。「虫も魚も鳥も、根こそぎいなくなった世界で、たった一人残されてさ…。お前だけは生きなさいって言われてるみたいだった。誰にだろうな…。ガキの頃、背中を擦ってやった婆ちゃんかもな…。でも、どうしようもないだろ?むかついてさ、死のうと思った。でも、それだって急ぐ必要なんて、もうこの世の何処にも、無いんだよな…」
溜息をつこうとした俺の横から、ふいに雷のような光がびゅっと横一文字に伸びて、海のずっと遠くに墜落した。少しして、昔図鑑で見た、鯨が潮を噴く写真の記憶より、何倍も大きな水飛沫が、目の前に花火のように広がった。
俺の傍らでは、あいつが二本の指で器用に持ち構えた、俺から見れば奇妙な形をした光線銃の先っちょを、海の飛沫に向けていた。
飛んできた飛沫が、一瞬豪雨のようにざあっと俺達の頭上に降った。
それが収まると、あいつは俺の真似をするように、ポイっと銃を浜辺に投げた。
「なんだ…お前も自分用に残しといたのか?」その時のあいつの顔が何と言いたげだったのか、それを判るにはまだ何万光年か、足りない。…それは相手にとっても同じことだろう。だから、俺は気にせず、独り言のつもりで喋り続けた。
「…いいのかよ、使っちまって。敵地のド真ん中で、帰りの船も仲間もいない。おまけにメシも尽きかけてる。死にたくなる要素は十分あるぞ」
俺の言葉の意味が判っているのか、判っていないのか、あいつはまくしたてる俺に顔を向けて、キシシと笑うだけだった。
やがて俺もそれにつられた。宇宙人の光線銃からは、人をおかしくしてしまう放射線でも漏れ出しているのかもしれない。俺達は夕日が沈みきるまでの間中、ずっと笑いが止まらなかった。